多々良純さんとの短いご縁

さてさて、黒沢 明監督の七人の侍ですが、多々良純さんという俳優さんも出られてました。この方は個性的なちょっとしゃくれたお顔をされてましたが、なくてはならないような存在感で当時はご活躍でした。

かなり昔、またまた徹子の部屋ですが、ある時多々良純さんがゲストで出られていて、ご自分の俳優になられるまでの経歴を披露された時に、主人のおじいさん、この時徹子の部屋を見ていたお姑にとっては実の父に当たるわけですが、多々良純さんは学校を出て、帝国ホテルに勤められてその時にこの主人の祖父に大変お世話になった、と言ったらしいです。

その後何かで実家に行った時に、たまたまこの徹子の部屋を見ていた義母に、このお話しを聞きました。

このおじいさんは学校の英語の先生だったそうで、そのまたお父さんも校長先生だったそうですからそもそもはそういう家系だったようですが、英語ができるということでどなたかの推薦だかお誘いを受けて、五年間アメリカにホテル業を学ぶために留学したそうです。その時にはすでに結婚もしていて三姉妹の長女である義母は生まれていました。

そして帰国して帝国ホテル、のちには奈良ホテルなどの支配人として活躍したようで、当時のホテル関係者にはちょっと知られた方のようでした。時の人、みたいな欄で新聞に取材されている記事も読んだことがあります。

当時アメリカのどこの家庭にも普通にピアノがあるので、帰国して娘である義母にピアノを与えて習わせたそうです。お義母さんは青山通りをピアノのお稽古に通っていた、と初めて聞いた時にはちょっとびっくりしました。昭和の戦争前のお話しです。

学校の先生からホテル業というのも真逆な感じでそこが面白いと思いましたし、この家の人らしいと思いました。あんまりこだわりがなく何か面白がって新しいことに取り組む血が流れているなと思ってました。

ところが今年に入って主人の父方の親戚から連絡あり、札幌からと神戸からの親戚にもあって、函館、青森、和歌山などの役所から戸籍やら関係資料やらを送っていただき、それなりに見えて来た家系も、やはり新しいことにどんどん取り組んで、執着しない、見知らぬ土地に行くこともいとわないそんな血筋が伺えます。

縁て不思議です。主人のお父さんとわたしの父が同じ病気で亡くなったこともわたしは縁を感じています。