メディチ家はやっぱり選ばれたのかも

今日は早稲田エクステンション、三森 のぞみ先生のイタリア史講座今期8回目。

いつもより早く家を出たのに京急本線の人身事故で遅延、でも、ちゃんと間に合いました。早めに出ていることの恩恵です。最近はいかなる時も早め、一番乗りしてますが、ギリギリセーフの時代もあり。わたしも落ち着いてきました。

さてさて、ルネサンスのフィレンツェ、メディチ家のお話がものすごい迫力で講義され、尺オーバー。

最後の10分で、次のルッカに触れられるとクラスで笑い声も。皆さん顔の表情は変えなくても集中されてます。さすが、顔に出さない日本人ですね。

コジモ デ メディチ、ピエロ デ メディチと来て、そうです、あのロレンツォ デ メディチ。

この方は怖いぐらいに人相は悪いですし、しかも声も悪かったとか。ですがものすごい人気で、わたしには人気と思えてしまうのですが、相当の政治家としての手腕もあったようで。

確かに、過去に読んだ本では人を思う、人を育てて力になる人徳者の印象で、やはり並みの人ではなかったんでしょう。

43歳で亡くなるなんて、しかも彼の亡くなった1492年は欧州のあちこちにものすごく重要な年です。ロレンツォが生きていたら歴史は違っていたかも。

歴史を勉強していると、偉人の息子が凡庸で、でもそのまた息子はおじいさんを上回る偉大な人だったり、逆に狂人だったり、、、、

その家によって色々ですが、何も帝王学など授けなくても、帝王になる子はなるもんなんだな、と思います。

血筋のようでもあり、環境や教育のようでもあり、でもやはり運命を強く感じます。

ルネサンス期のフィレンツェはあくまでも理想的な共和制を謳っていたので、ロレンツォ デ メディチをリーダーとして頼りにしても、それは公式のことではなく、あくまでも私的なやりとりだったようで、ロレンツォは、満を持して公のフィレンツェにおける最高の地位に着く目論見があったようですが、その前に亡くなってしまって。

当時、ロレンツォが亡くなった時の、フィレンツェの人はどんな反応だったのか、、、、歴史を勉強するには想像力を働かせること、それは普遍的な人の気持ちがわかることだな、と思います。

映像は、ストロッツィー宮殿、つぎは、ルチェライ宮殿、その宮殿の前のカフェで水を買いました。イケメン2人が店番してます。

そしてピッティ宮殿。これに加えてメディチ家のリッカルディ宮殿の四つがフィレンツェの四つのお金持ちの名だたる宮殿と言われています。

わたしの写真には、ウォーリーを探せ、さながらに娘が必ず写ってます。探してみてくだされば嬉しいです。どうもすいません😅